ゴンドラに15分乗り海抜800mの稜線に立つ、目の前に聳える長城。今年は玉門関の漢代長城、喜峪関の関城、その北端の45度の急斜面に建つ懸壁長城、南へ伸び河に落ち込む絶壁に立つ長城第一とん(物見台)そして寧夏の三開口長城と随分長城と対峙したがいずれもその顔は全く違うものである。黄土と萱を固めただけのもの、敵の馬が越えられない7mぐらいの高さのもの、狼煙を中心とした連絡型とさまざまだ。
中華と遊牧民族の攻防の舞台の長城は、その立地条件で変わるのは当然のことであるが造営の実態は2000年の歴史の中で見る必要があるだろう。
金山嶺長城は複雑で激しい地形を利用して造られている。敵台が数多く造られ、その間隔はおよそ100mごと、激しい所では50-60mごとか。この長城は建造技術も素晴らしく堅牢に築き上げられた城壁や敵台などがよく残っている。
文革のあと20年後に修復されたが原形を残すようつとめたため本来の長城が見られるという。ここから連なるのは長城の中で一番険しい司馬台長城である。その絶壁に立つ望京楼からはまさに60キロ先の北京が望めるという。
金山嶺の石畳を踏みしめ歩く。歩きやすい。物売りの他に2-3人のヨーロッパ人とわれわれ仲間だけで全く静か、鳥の鳴き声も聞こえない。デイジュン ライラ(敵軍が来たぞ)と ふざけて西の方に声を上げたがその声はすぐに風にかき消された。この城は明代1567-72年の長い期間兵士を動員して以前の城壁あとに造られたという。大変な犠牲を伴っただろう。長城の「孟姜女伝説」を思い出す。
新婚の夫がすぐに長城修築工事に懲発され、その後音沙汰がなくなる。新妻の孟姜は遠路をいとわず捜し求める。寒風吹きすさび、雨の降るなか、ようやく到着したものの愛する夫は既に死んでおり、その屍はすでに長城の土壁のなかに埋められていた。悲しみ嘆く妻は長城の下で慟哭した。すると天地は暗くなり長城は崩れた。長城の瓦礫の中からは人骨が現れた。妻は指を傷つけ“この血が骨に染み込めば夫の骨“と血を骨に落とすと、血は骨に染み込んだ。長城建設に庶民が沢山犠牲になった代表的な悲しい話である。
金山嶺の長城は守りの堅い要塞を思わせる。これだけ高い長城の目的はなんだったろうか、遊牧民族に対する威嚇か、高い位置での狼煙による情報戦略だったのか、明の時代は積極的に長城が築かれたが、逆説的に言えば明の軍事力の弱さを長城で防御していたといわれる。征服王朝の清の時代は北方民族をはじめ多民族との良好な平和外交政策により長城は無用になり民衆の心を捉えた寺院の建設が盛んになったという。何か現代の国家間の核兵器問題を連想させられるようなことである。
急な階段の烽火台を越える。狼煙は字の如く狼の糞を使うが、狼の糞は真っ直ぐ高く上がるからと言われている。金山嶺の高いところでどれだけの高さの煙が上がるのか、風が強い時はどうしたのか等々思いを巡らせていたが、突然物売りの声に現実に戻され長城を下りた。振り返った金山嶺の長城は雲が立ち昇り、巨龍が稜線に横たわって平和を謳歌していたようだ。