マルクス・レーニン主義と並ぶ中国共産党の指導思想。党の規約には、「毛沢東思想は、マルクス・レーニン主義の中国における適用と発展であり、実践によって立証されているように、中国の革命と建設についての正しい理論的原則と経験の総括であり、中国共産党の集団の英知の結晶である」と規定されている。
「毛沢東思想」は、 毛沢東 の全面的指導権が確立された1945年の7全大会で、初めて「中国の共産主義、中国のマルクス主義である」と規定された。それは、中国革命における路線闘争において最終的に毛沢東の路線が勝利したことを意味した。
毛沢東思想は従来のマルクス主義、レーニン主義では説明できない中国革命の現実から生まれたものといえる。その特徴は、①「農村が都市を包囲する」という農村根拠地論、②「銃口から政権が生まれる」という人民戦争論、③植民地、半植民地における「新民主主義革命論」に代表される中国社会の分析、④文革時代の「継続革命論」にみられる社会主義における階級闘争論、⑤人民の「能動主観性」に依拠した急進主義や理想主義、などに見ることができる。
党の公認イデオロギーとなった毛沢東思想は、毛沢東個人の権威を高め、建国後は個人崇拝や絶対化を生んだ。このため、毛沢東が発動し大混乱をもたらした大躍進や文化大革命に対して、党自身が歯止めをかけることができなくなっていった。個人崇拝や絶対化に対する反省が力を持つまでには長い混乱を経なければならなかった。
一方で、毛沢東思想は、1960年代から70年代にかけて当時のベトナム反戦運動や文革と結びついて、欧米や日本、第三世界において世界的なブームとなり、そのダイナミズムとロマンティシズムは、学生運動や知識人に大きな影響を与えた。
中国共産党による毛沢東思想の現在的な位置付けは、1981年の第11期6中全会で採択された「歴史決議」によって確定した。中国共産党の指導思想たる毛沢東思想は、毛沢東個人の思想すべてを指すのではなく、「実事求是」(事実に即して真理を探究すること)を通じて正しいと立証されたものを指すとされた。
それは一方で“換骨奪胎”を意味する。毛沢東思想のイデオロギー的側面は薄められ、中国革命と中国共産党の正統性と権威の維持、国家統合の象徴としての役割へと変化した。