中国の政治家、軍人、思想家。
中国共産党の創立メンバーの一人で中華人民共和国の「建国の父」とされている。逝去に至るまで同国の最高実力者の地位を保った。
1893年、湖南省湘潭県韶山村の地主の家庭に生まれる。三人兄弟。
生家は地主といっても小規模なものであり、毛沢東は厳格な父によって子どものうちから労働に従事させられる。
小学校を卒業後、長沙の中学に通い、14歳で最初の結婚をするが数年で妻は死去した。
1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。
1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。同年恩師の娘・楊開慧と結婚。
1921年、上海で中国共産党の創立メンバーとして第一回大会(中共一大会議)に出席し、以後その指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。
コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(秋収起義)したが失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井岡山に立て籠もることになった。
1930年、妻の楊開慧が、蒋介石率いる中国国民党軍に捕らえられて処刑される。同年、毛沢東は井岡山を去り、江西ソヴィエトを建設。主席となるが、以後四年間国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。
1935年1月15日、貴州省遵義で開かれた会議(遵義会議)で党の実権をほぼ掌握する。
1937年に始まった日中戦争において、第二次国共合作を行い、宿敵である蒋介石と手を結び共同戦線を構築。
1936年秋に陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。消耗を防ぎながら抗日活動を続ける。
1938年に長征時代の妻である賀子珍と離婚し、元女優の江青と結婚。
1940年、「新民主主義論」を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。
1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、ソビエト連邦からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗によりアメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍を駆逐し、徐州を中心とする、大規模な准海戦役に勝利、1949年1月には北京に平和入城。同年4月23日国民政府の根拠地・首都南京を解放。10月1日に天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。なお、蒋介石率いる国民党政府は台湾島に遷移した。
1965年11月、北京市副市長でもあった呉晗の『海瑞罷官』(かいずいひかん)を「大毒草」であるとした姚文元の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報』(ぶんわいほう)に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「造反有理(謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場におもむき、百万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ちたて、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は劉少奇(1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあったものを徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。
1976年9月9日0時10分、北京、側近と主治医に見守られるなか毛沢東は82歳で逝去した。
毛沢東の死の直後に腹心の張春橋、江青、姚文元、王洪文の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は完全に終了した。
遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。
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